本日は、日々よく思うことを文章に書き出してみようと思います。
私はプライベートでよくiPadとAppleペンシルを使ってイラストを描いたりするんですが、イラストレーターにとっては画期的と言えるほど素晴らしいツールなんですね。
書き味はまるで本物の紙に書いているかのようにリアルだし、ペンタブのように手元と目の前の画面が離れているわけじゃないし、パソコンのように重たいものではないので、移動中とか電車の中とかでも簡単にイラストが作れてしまいます。
この書き味を他の人にも知ってもらいたいなと思う人はきっと私だけでなく、大勢いらっしゃる事でしょう。実際に、何人かに試して貰ったところ「おお、すごい!書きやすい!」と面白がってくれていますし、これがきっかけでイラストレーターになった人もいます。
ところが、ときどきこういう事を言われます。
この絵心がないという言葉。なかなかに興味深いなと思います。
原因として考えられるのは・・・
- 興味がない
- 操作が面倒くさそう
- イラストを書けることに魅力を感じていない
- 不器用なところを人に見られたくない
- 実際はイラストが出来るようになりたいけど何処かで諦めている
こういったところでしょうか。
少しでも興味を持っているのだとしたら、絵心がないと言ってしまうのはすごく勿体ない事だなと私は思います。その理由は「おお、すごい!書きやすい!」と楽しそうにIpadを触る人が隣にいるとよくわかります。初手から、出遅れてしまっている(もしくは永久に閉ざしている)んです。せっかくの可能性の芽を自分で閉ざしちゃってるんです。
そして若い人ほど面白がる傾向にあり、年配の方ほど億劫になる傾向があります。スポンジのような吸収力があるうちは、何でも面白がって取り入れるという事ですね。
この吸収力は成長速度に比例します。やるから次の問題が見えてきて、解決する。解決したら、その次の課題へ。こうしてどんどん技術は研磨され、上達していきます。
そして皮肉なことに、この積み重ねが多い人ほど「センスがある」「絵心がある」と言われるようになっていきます。
実際は、センスや絵心のせいではなくやったか、やっていないかの差でしかないなのに、センスや絵心のせいになってしまうのです。これは本来、その言葉の間違った使われ方だなと思います。
本当に才能が問われるのは、積み重ねた先なんじゃないかな。
ある程度の座組みが揃っているのであれば身につけられることの大半は「他の人でも再現出来る事」だから。
その人だけにしかできないオリジナルがあり、それが輝くかどうかの瀬戸際がセンスのあるなしを二分するんじゃないかな。こんな風によく思うのです。
これは文章を書くにしても、デザインセンスにしても同じ事です。
例えば私はかなりの頻度で当ブログの文章を書いています。時々「文才がある」「わかりやすい」と言われますが、どうしても聞いていて違和感を覚えてしまいます。
読みやすい文章にはパターンがあり、それに当てはめて文字を綴っているだけのこともあるからです。それはまさに前述の「他の人でも再現出来る事」であり、私個人のオリジナルではないのにな。と思ってしまうからです。実際のところ、私はまだまだ技術者としてもクリエイターとしてもエンジニアとしても発展途上段階であり、偉そうなことを言えた立場ではないのです。
もしも上から目線に感じさせてしまったら申し訳ないのですが、今この文書を読んでくださっている方へ本日のお話を通じて伝えたいのは「センスという言葉を、行動しなかった理由にしてしまっていないか?」といったところでしょうか。
何だか取り留めのない文章になってしまいましたが、本日のブログを「面白い」と思って読んで下さっていたら嬉しいです!
それでは、来週もまた宜しくお願い致します。